映画のほうは見ていないので、こうの史代著「この世界の片隅に」を一読した感想を記しておこう。著者の名前は憶えていなかったのだけど、以前「夕凪の街」が話題になったときに、ちょっと避けたんだよね。絵柄的…ではなくて、原爆を扱って、それが話題になっていたところで避けてしまっていた。で、改めて、先日 Kindle で「この世界の片隅に」上中下の3巻を買って読み終えて経歴を調べると、広島市西区生まれで広大の人だった。しかも同い年だ。中高を広島市で育った私としては、本当の意味で「同時代」的な人らしい。
「夕凪の街」は、直接、広島の原爆を扱うけど、「この世界の片隅に」はちょっと離れた呉から原爆を扱っている。全体的には戦時中の生活を扱っているのだが、やっぱり呉から見た「新型爆弾が落ちたらしい」という言葉は、精一杯の言葉になる。
絵柄的には、近藤ようこや「ヨコハマ買い出し紀行」の芦奈野ひとしに似ている。情景を描くので、キャラクタ自体はおとなし目だけど、逆にそっちのほうが印象感じになる。水木しげるの「熊楠」も似た感じの描写になるよね。情景の書き込みに惹かれるものがある。おそらく、呉港に出て来る数々の軍艦が映画のほうでは主になっている(ような感じがツイッターではみられるんだけど)、漫画のほうでは、シルエットとして軍艦が描かれている。特徴を軍艦のシルエットは漫画の中にもあるけど「諜報」活動とみなされたりするし、いわゆる戦闘機の機影で敵味方を識別するのと同じように、遠くから見える船影で相手を識別する。そんな軍艦の大きさと、生活との隔たりがよく描かれていると思う。
焼夷弾の内容とか、戦時中のあれこれの習慣がディテールとして詳しく書かれている手法は、高橋孟の「海軍めしたき物語」を思い出させるし、道具のあれこれが描写されているのは妹尾河童や安野光雅がベースだろう。もちろん、はだしのゲンは織り込み済みだ。
戦時中の生活を比較的「楽しく」描くという点では、NHKの朝の連続テレビ小説の長谷川町子の話の「マー姉ちゃん」あたりじゃないかな。最近の連続テレビ小説は戦時中の話は飛ばしてしまうことが多いのだが、当時(40年前ぐらい)は、視聴者がまだ戦争を知っていた世代でもあって、戦争を結構身近に描いていた。ただ、戦争モノを直接見ると、戦時中の本当の想いがよみがえってしまうので、少し視点を変えていたりする。
それが、「この世界の~」でもあるように、特に鉄砲が出て来るわけでもなく、何度となく鳴る空襲警報だったりする。3巻のうちでも戦闘機からの機銃掃射は1回しかない。焼夷弾も2回しかない。1回は防げて、不発弾で主人公は右手を失うところまで描く。
繰り返すが、数々の戦時のディテール(戦闘機や爆弾も含めて)が詳しく描かれているのは、そのほうが「リアリティ」を持たせられるからだ。現実の話だから「リアル」で当たり前のような気がするだろうが、実は違う。例えば、「爆弾が落ちて数万人の一瞬にして死にました」というフレーズよりも 原子爆弾 – Wikipedia にあるように、重さが何キロで緯度経度がここで、広島県産業奨励館の上で爆発して、直接の死者が何万人で、間接的に被ばくした人が何万人で…というような「殺傷力」という形で書くとディテールが埋まってリアリティが出て来る。と同時に、ディテールとしての情報が多いが故に、読み手が「何かを選択する」という余裕が出て来るという影響がある。なので、この手の「情報過多」なところは、当時のリアルを知るために必要だったりする。そのあたりのリアリティが今回の映画にも必要なのかどうかは分からない。
今はよくわからないが、当時(35年ほど前)の広島の中高生は、同和教育と原爆教育がしっかり行われている。同和教育は、数年後位に日教組がらみで止めることになった覚えがあるが、さだかではない。何故、同和/部落と原爆の差別教育が並列で行われるのかという、これには意味がある。私の場合、実際の部落を知ったのは大宮の小学校の頃なのだけど、いわゆる本人に依存しない「差別」は、同和による差別も被爆による差別も同じ感情からでてきている。ちなみに、福島の差別も同じだったりする。私がまだ、中学生だった頃「結婚ができないから被爆手帳を持たない」という人は結構いた。「夕凪の街」に出て来るけど、親が被爆して二世代目でも結構、避けていたりする現象だった。
そのあたりの話は、「この世界の~」ではあまり出てこない。いや、最後に強烈な形で出て来る。広島で母親を蛆虫で喰われている子いて、子のない主人公が、右手を失ったままで家族ぐるみでその子を受け入れるシーンがラストになる。
まあ、広島で育つと、そのあたりは一生離れられないのかもしれません。良い意味で。