皆さま、明けましておめでとうございます…と書こうと思った途端の地震ではありますが、去年は地震に明け暮れ、今年も地震の年なのかもしれません。まぁ、原発な年(以降ずっと)なのは確かなことですが。
さて、去年の.NETラボでオフレコで話して、4月以来ずっと想って/考え続けていることが二点あります。
- 日本の IT 産業は復活できる可能性がある。
- 経費はトータルコストのみ捉える。
この2つは一見、遠いようでいて近い…と言いますか、日本という国、アメリカという経済(あるいは幻想)、中国という市場(あるいは幻想)という立ち位置を自分の位置と絡め考えると、「近い」ところにあります。まぁ、「日本という国」が「幻想で包まれた日本という国」の「幻想」部分が暴かれてつつあることは確かなことですが。そこは「実体」を見ましょうということで。
■日本のIT産業を復活させる
「復活させる」と書きましたが、実は「興隆を極めた」ことも無い訳で、実はこれからなのかもしれません。「興隆」という点では、2000年ぐらいまでの tron とか v30 あたりの頃までかなと。os という分野で、windows, linux, ios と様々あるのですが、現在の日本は自力で os を開発していません。唯一携帯電話(いわゆるガラケー)の中で tron が使われてきた訳ですが、昨今の android と ios に押しつぶされてしまっています(実は symbian も押しつぶされる)。
パソコンを動作させる時に、os が必須で、その os はサーバーに使われたり、高いライセンス料を払わされたり、毎年の更新料金が必要だったりと、お金が流出している(本社がアメリカということと、株主が海外にいるということと、あるいは「株式」なり「投資」という仕組みそのもの)のは確かなことです。かといって、現在使われているパソコンを全て、国産 os にすれば良いのか、あるいはセキュリティやライセンス絡みで linux にすれば良いのかという議論が長く続いてきたのですが、どうやらスマートフォンやタブレットという形で、パソコンの os の利権は徐々に影響が無くなってきています。
また、ソーシャルゲームという分野では、web 自体が相手になるので、os 自体はあまり問題にはなりません。実質は linux + apache という組み合わせなのですが、ui がブラウザという枠にはまるために、敢えていえばサーバー側が linux というos に縛られ、クライアント側が javascript, html5 という os(のようなもの)に縛られるという形になります。
と言う訳で、os 自体にはあまり魅力が無くなってきている、というのが結論です。
そうなると、os 自体やそれを取り巻く開発環境や運営環境なぞを、扱っている大手企業(あるいは中小企業)は、いわゆる「メンテナス業」としての仕事にシフトします。メンテナンス業の場合は、
- 如何に、メンテナンス自体を効率化させるか。
- 如何に、メンテナンスの単価を下げるか。
ということに注力するために「アウトソース」が主流になります。クラウド化もそうなんですが、単価競争になりますね。このあたりは所謂大手の会社(富士通、日本電気、パナソニック、日本IBMなど)諸々に任せてしまうのがよいでしょう。当然、ここを請け負う中小企業も一括で。
さて、「開発」と「保守」という点では、私は圧倒的に「開発」寄りなので「復活」の議論を開発寄りに進めていきます。
「オフショア開発」が言われて久しいのですが、開発自体もアウト―ソースします。これも、大手からの人件費削減という要請から、自然と「単価の安い」会社に発注することに注力します。単価のやすい中国の開発者を使う、単価の安い韓国の開発者(韓国って安い?)という風に動くわけで、今後は単価の安いベトナム開発者へという動きになりでしょう。
しかし、日本の場合「単価の安いインドの開発者へ」には動かないことが多いのです。インドに発注すると、日本のSEが英語の設計書を書く必要があるという理由と、意外とインドに発注しても安くならない、というのが主なりゆうです。
「開発者」を雇用労働者として考える場合、「如何に単価を抑えるのか」という工場的な立場になるので、価格競争に巻き込まれてしまうのは確かなことです。資本主義…というか株式会社、株主、投資家という繋がりがある以上、どのような競争も「開発者」にとっては単価を下げる、単純労働の範囲になります。
しかし、「開発者」をスペシャリスト(他とは切り替えられないひと)として考え直してみると、実は先の「復活」のところに繋がってきます。つまりは、「単価競争」をしない立場にいればよいわけで、
- なんとかのツールを使えば、早く安くできる
- なんとかに発注すれば、手軽に作れる
という「大量生産」指向をやめます。いや、大手の場合はそれでよいのですが、個人、零細、フリーランスの場合は「安く」という選択肢を捨てます。「価格競争」をする場合は、自分で会社を作ってから(ある意味で、搾取対象…じゃなくて代わりに働いてくれる人を作ってから)にしたほうが良いでしょう。
となると、何で競争をするのか(あるいは競争をしないか)というと、「職人的な腕」で勝負をします。職人的な腕というのは、数年なり弟子なり師匠なり地道なりで、培わなければ辿り着けない道を敢えて選びます。
その培う技術は何なのか一例をあげると、
- 画像やパターン認識によるロボットとの連携(今、私がやっている/やろうとしていること)
- 組み込みシステム全般
- google, twitter, facebook, apple 自身が組み合わせとして不可能なものを、外部から組み合わせる
要は、アメリカスタイルの最初の部分を「真似ます」。実は、この「真似る」ところ、最初はアメリカの企業が地道に真似るところがスタートしています。
ステップとしては、こんな感じです。
- アメリカの技術を踏み台にして、組み合わせる(国産に拘らない)。
- 片方は、独自技術に置き換える。
- もう片方を、独自技術に置き換える。
という「真似る」ところがスタートします。独自技術あるいは独自の価値に置き換えるのは、先の大手の「価格競争」に巻き込まれないためです。まぁ、「価格」や「原価」という視点自体が、アメリカ資本主義の最大の弱点(あるいは強み)なので、その土俵に「乗ってあげない」という方法です。
■経費をトータルコストで捉える
価格競争なり株式なり投資なりの場合「お金」が最大の基準になります。この幻想は強くて、なかなか離れられないものなのですが、何も「世捨て人」になったり「仙人」にならなければ、離れられないかというとそうでもありません。
「行動経済学」やら「昨今のフジTV」やらを考えると、バイアスという考え方が良くわかります。また「不安を煽る」やり方や「幸運を煽る」というやり方、があまり楽しくない手法であることが分かります。
「満足度」という言葉がありますが、例えば、月収30万円で満足する人が40万円貰えるようになるのと、月収100万円で暮らしている人が40万円貰うようになるのとは、どう「満足度」が違うのでしょうか。当然、後者のほうが「不満足」で、前者のほうが「満足」ですね。同じ40万円という「お金」が、実は個人の満足度には直結しません。なので、GDP が高いとかが国民を満足しさせないから…と言って満足度指数を測るというのも変な話ですね。個々人で「満足」とは何かは違うのですから。
なので、マクロ的な満足度はさておき(おそらく幻想の匂いがします)、ミクロ的な満足を考えます。いわゆる、
- 家族が幸せに暮らせるとはどういうことか?
- 自分が満足した日々を送れるとはどういうことか?
- 健康が満足とどう関係しているのか?
- 年金や消費税や原発問題などが、自分の満足度とどう関係しているのか?
ということです。極めて個人主義的な考え方ですが、個々人の満足により死に至る争いをする率が減るのであれば(進化論的にはそうはいかないのですが)それはそれで良いのだろうし、ある程度ミクロがまとまってマクロになるであろう、という推測です(勿論、マクロだけを取り扱って満足な方もいるんですけどね、あの国会議事堂にいらっしゃる方とか)。
こうなると、
- ある程度の満足が得られる収入を持つ
- ある程度の満足が得られる仕事を持つ
- 満足が不満足になるゴシップから遠ざかる
のもひとつの方法です。「収入」と書きましたが、お金(札束)である必要はなくて、自分の生活を満足に保てる程度の現品収入でもよいのです。それ以上は、満足度を大きく押し上げる要因ではありません。自分が満たされているというラインよりもちょっと上であれば十分なのです。
なにか宗教がかっているように見えますが、式で書くとこんな風です。
M < m + x
自分が満足される仮定値 M とすると、現実の収入 m よりも若干 x だけプラスであればよいのです。これが仮定値 M よりも若干大きければ「満足」になります。ここが不等号になるのは、x という余剰が、自分の仮定値 M とイコールになる場合には、あまり満足できない、ということを示したいためです。
さて、話を元に戻すと、この「若干」の部分を捉えるためには、駒かいところに注力しても意味がないということになります。仕事を受けるなり、収入を得るなり(雇用で自営であれ)ときには、
- 戦略的なビジネス価値(いわゆる、ハイリスク・ハイリターン)
- 安定した収入の確保(いわゆる、ローリスク・ローリターン)
を別々に考える必要があるということです。社員であるときには、ビジネス的な価値を考えることはほとんどなかったのですが(「会社のお金」を使ってビジネス的な価値を考えることはあっても、それは税金を使って東電を助ける、ぐらいの「身に迫らない」発想でしかありませんでした)、これを分かれ目を明確に決めないと、自分の人生を食いつぶしてしまいます。特に自営の場合は。
という訳で、手早く済ませる仕事であれば「経費」プラス「若干の余剰」を見込んで請求する。この若干の「余剰」というのは、先の「M < m + x」を満足させるものであったり、ビジネス的な価値を創造させるための原資であったりします。
なので、ビジネス的な価値を生み出す場合は、
- 経費的なコストは、感知しない。
- ただし、期間、必要経費を明確に管理する。
ことが必要です。投資でいうところの損きり、ベンチャーキャピタルで言うところの確率的なものですね。なので、できあがらない場合、リターンが見込めない場合は、ビジネス的にシビアに切ることが必要です。
と言う訳で、だらだらと書きましたが、「単価戦略に乗らない」のと「経費をトータルで考える」の2点を抑えて、今年はやっていく予定です。ええ、「私の好きにやらせて頂きます」という方針ですね。
ミクロな満足度のところ「家族が幸せに暮らせるとは」のように濁して書きましたが、「収入を高く得る」→「家族が幸せに暮らせる」という、お金と「なんらか」とは直接関係がないことを示したかったからです。昨今、ブログ投げ銭(だったかな)やクリエーターへの還元とか言われていますが、あまり私は好ましくは思っていません。
だって、「お金を払う人」のお金と、「お金をもらう人」のお金とはイコールだけど、お金を払う人の気持ちと、お金をもらう人の気持ちはイコールではありませんよね。なんか、これもイコールのように「見せ掛ける」のが最近の風潮らしいので、落とし穴にはまらないように。。。(私も時々はまるので、自戒を込めて)。
その手の「お金を払う」という行為は、免罪符でしかないんですよ、やっぱり。
だから、対価を積極的に求める行為と、あまり求めない行為(むしろ対価を拒否する行為)は別々にしたい。