極めるという事を少し

ちびっと雑談レベルで。

コニカさん経由で知ったSALONさんなブログですが、

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まだお会いしたことはないのですが、OverClock な仕事(なのかな?)をしばらく見ていて思ったことを。

オーバークロックって16MHzの頃ぐらいしか分からなくて、当時はちびっとでもクロック数を上げようとして発信器を変えたりなんぞがありました(私自身はやったことはないのですが)。最近は、2GHzとか格段に早くなったもので、昔のようにちびっと上げてる感じでは実用的には意味がないよなぁ、と思っていたものですが。

う~む。1か月ほど眺めていたのですが、なんか迫力が違う。つーか、オーバークロックという狭い範囲(失礼)でも極めていくと、世界に通用する、つーか、duck さんという世界一な方も近くにちらほら。

一般の人にはCPUとかGPUのオーバークロックなんて全然意味が無くて、全く興味のない話な訳ですが、そりゃあ、クラウドやらSiverlightやらiPhone/iPadやらのほうが、宣伝的に良いというか最新技術っぽいというか、そういう「目新しさ」があります。
が、そういう「目新しさ」とは別のところに、個人的な価値(大袈裟に言えば、個人の人生だったり、個人を巡る周辺の方々だったり)が歴然としてあるわけで。当然「目新しさ」という基準や、「社会的な宣伝」(社会的な貢献みたいなものも含めて)という基準もあろうというものですが、まぁ、それはそれ、これはこれ、なのかなぁ、と昨今思っています。

まあ、これは、私が会社を辞めているからだと思うし、自営業というスタイルだからと思うのですが。

「極める」というか、根本的に人は「自由」なところにあると思っています。「自らを由縁とす」という約仕方をすれば、最初の身の置き所が自分自身にあり、それが徐々に「不自由」になるごとに由縁の部分が外部に出てしまうという感じですね。
それで、自分の想うままにということろで、身勝手に見えたり、極めることに見えたり、はたまた破綻したりという現実があるわけですが、大衆という形のないもの、「有識者」という形のないもの、「最新技術」という拠り所がないもの、よりは、オーバークロックという一見よくわからない(いや、やっぱりよくわからんけど)もののほうが、地に足が付いているように見えるのが不思議なところです。

と、当たり前のことを考えてみました。

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極めるという事を少し への2件のフィードバック

  1. konica のコメント:

    確かにそう(´・ω・)スね
    ある意味バイクや車のレースに近いものもありますね。
    行き過ぎれば浮世離れするし、
    逆に特化して突き抜ければ、カリスマにもなるし。

    これは認めたくないけど、
    人の器っていう部分もあるし。

    そんな事を考えて地道に進む今日(´・ω・)ス

  2. masuda のコメント:

    オーバークロックってドラッグレース的な興奮ですかね、とか。

    「人の器」に関しては、
    「嫉妬」を表に出さないだけで、「人の器」があるように見えます。

    「あいつ、うらやましい、くやしい」と思って悪口を人に言ったり、妬んだりするのを、「人の前でやらない」。
    # 他人に見えないところでは、大いに嫉妬するのですw

    ってなことをやると、「器が大きい」ように見えます、とか。

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