原子力学科卒としては、観ておかないといけないなぁと思いつつ、そのままになったていたのだが、時間が取れたので映画館に行った。
結論から言えば、ツイートした通り、同時公開されたときに何故か日本だけ外された(あるいは外した)ことが悔やまれる内容である。宣伝の仕方が不味かったのもそうだけど、宣伝的に原爆実験をしたシーンが表に出てきてしまい、それに反感を覚える日本人(あるいは広島在住者?)が多かったのかもしれない。バービーとのコラボ?っぽいツイートで騒動になったのもそれだろうが、結果的に同時公開しなかったことが悔やまれる。
映画としてはマンハッタン計画の中心人物として持てはやされるオッペンハイマーが、当時の「機密安全保持疑惑」に嵌められたというスタイルを取っており、それが史実かどうかはよくわからない。アメリカ内ので彼の評判も私はよく知らないので、なんとも言えないが、日本側から見ると、
- アメリカが原爆を開発した。
- ポツダム宣言以後に、広島と長崎に原爆を落とした
- アメリカでは原爆は戦争を終了させる人助けとして認知されている
という見方になるが、映画を見るとアメリカから見れば
- ドイツやソ連に先立って、アメリカは原爆を開発する必要があった
- ドイツが敗北した後でも、日本の侵攻を防ぐために攻撃する必要があった
- 政治的な問題として、ポツダム宣言以前に原爆実験を成功させる必要があった
- 政治的な問題として、威力を示すために、広島と長崎に原爆を落とす必要があった
となっている。映画「オッペンハイマー」では、オッペンハイマー自身の苦悩としてあらわしているものの、実際のところ、
- ポツダム宣言の前に、原爆実験を成功させる
ことを「成功」と呼び、そこにいた科学者も含めて成功者としてオッペンハイマーを称え狂喜するシーンがある。それにオッペンハイマー自身が応じるわけだが、ここでは
- 回りの狂喜する声が聞こえない。
- オッペンハイマーは、自分自身の声をぼんやりと聞いている
という演出がなされる。
直前の原爆実験の秒読みや実験直前の嵐のシーンなどは、なんらかの科学実験を連想させ、その成功を映像とともに観客も喜び出しそうになる(実際、アメリカが歓喜があがったようだ)のだが、その直後の先ほどのシーンを考えれば、それがほんとうに「喜ぶべきものだったのか?」と自問させるところである。
日本人から見れば、大量殺戮兵器としての「原爆」の完成を喜ぶなんて!と思うところだが、当時のアメリカ人からすれば(それはオッペンハイマー自身もそうだっただろう)、原爆による悲惨さ(とくに火傷や後遺症など)は知るべくもない。誰も実際に広島に投下するまでは解らなかった時系列があり、その事実の前では原爆も完成を喜ぶのも無理はない、という感じがする。映画を見ている私達は、原爆の事実を知っているのので、あのシーンに疑問を投げかけることができるが、知らなければそれは「狂喜」しただろう。いや、誰もが喜んだと思われる(殺傷力も過小に見積もられていたし)。
そこで一緒に映画の中で成功を喜ぶ科学者と同じく声を上げたアメリカの観客が、その後で、オッペンハイマーが、黒焦げの子供の消し炭を踏み潰したシーンを、どう見ただろうか?ということである。その落差が非常にうまく演出として効果をあげている。
「トランスサイエンス」という言葉がまさにこの映画にあてはまると思う。いや、アルビン・ワインバーグ – Wikipedia 自身もマンハッタン計画に加わっているので、まさにそれなのだろう。物理学者の世界では、どうしてもこの原爆を作ってしまったという「マンハッタン計画」を歴史上避けられない。おそらく、それはコンピュータを主とするソフトウェア開発者もあてはまる。私の場合は、二重にあてはまるのだが。
追記
いくつかツイッターで検索すると、原作があるそうなので、後で読むことにする。
Amazon.co.jp: オッペンハイマー 上 異才 (ハヤカワ文庫NF) eBook : カイ バード, マーティン J シャーウィン, 河邉 俊彦, 山崎 詩郎: 本
感想として「オッペンハイマーを英雄として描いている」部分が気に入らない方が多いようだが(実際に演じた役者にとっても、「原爆の父」あるいは「原爆」がアメリカの大切な資産として扱っている人が多いらしい)、実際のところ当時のアメリカにとってオッペンハイマーは英雄であったろうし、おそらく今でも英雄的な扱いと思われる。
映画の中でトルーマン大統領が言っているが「恨まれるのは科学者ではなくて、政治家だ」と言っている通り、裁かれるのは当時の政治家であり、おそらく大統領の言葉は、当時のチャーチル首相を模した言葉だろう。敵国(この場合は日本、チャーチルにとってはドイツ)にとって憎まれるのは、当然のことでありむしろ勲章に近いものがある。
が、科学者としての物理化学者としてのオッペンハイマーは、そのような政治屋ではない。という描き方がされている。だから、当時のアメリカ国民から「英雄」とされつつも、原爆を作ってしまったという自責の念があり、それは最後のアインシュタインの言葉の通り、最終的に評価されるということは科学者自身のためではなく、周りが納得いくための儀式でしかない。つまりは、原爆を落とし、その後の被爆者という現実を作ってしまったことに対しても、時間が経過すればそれらの現実味が薄れて、最終的には「原爆の父」であり「泥沼の戦争を原爆でケリをつけた」という認識しか大衆には残っていないのである。
果たして、日本人がそれを受け入れられるかどうかは分からない。少なくとも30年前にこの映画があったらならば、まだ相当数生き残っていた被爆者からの声明がでたであろう。しかし、今に至っては被爆者も減り、当の広島や長崎からも「オッペンハイマー」という映画に対してなんらかの声明が出た(でなかったと思うが?)ようすはない。
そこは、同時上映にならなかたことで逃してしまった残念な点であると思う。
もうひとつ、余談ではあるが、当時の反共という流れ、戦時中はアメリカはソ連との同盟国であり、それと同時に冷戦時代になり「反共」という形で、一気に掌返しが起こる。オッペンハイマー自身が、共産主義に共鳴し、党員ではないが「共産党的な考え方」に共感を覚えるのは無理もない。当時の財閥対労働者、戦時中の資本家上位の風潮に対して、大学教員(教授も含めて)≒労働者というスタイルにならざるをえない。ここは、現在の共産主義とは違うところだ。
このあたりの雰囲気は、いまの大学も変わっていないだろうし、人道主義が優先なのは(同区立法人化したとはいえ)変わってないと思うのだが、さて。国立の授業料の件などでどうなるだろうか?大学紛争時代に戻ってしまうのか、興味あるところである。