新年あけましておめでとう御座います。ぐらいは書いておこうと思いつつ、現代思想2025年1月版のロスト・セオリー(絶滅した理論)に興味をそそられたので記録しておきましょう。最近、ブログ書きに戻ろうとしているのはツイッターのX化もあるし、散漫に残しているだけではどこかに散ってしまいそうだからという理由もある。もちろん、以前と同じく「moonmile 〇〇」という形で Google で検索すれば自分のブログが引っかかるので、全文検索替わりになるというのもある。Google検索のAIはあいかわず当てにはならないのだけど、自分のブログの特殊なものも拾ってくれるのもいいのではないだろうか?
烈烈布神社に参拝する
年末年始に実家に帰ると近場の烈烈布神社に参拝することにしている。以前は、車で北海道神宮神宮まで行っていたのだが、父が亡くなってからは私自身が免許を持っていないし、まあ近場でよいだろうという感じになっている。
初詣の神社参拝は鉄道会社の宣伝という話もあるけど、それは遠地の観光地化された神社の話であって、近場の神社に参る場合にはそれ以前からある。どれ以前かは知らなけど、少なくとも明治以前も神社があったはずだし、初詣の習慣は江戸時代にもあっただろう。
初詣に行かないとダメというわけではない。別にいかなくてもいいのだが、ちょっとした切っ掛けがあるときには面倒でなければ行っておいたほうがよい。つまりは、
「今年は初詣に行かなかったから、この仕事がうまくいかなかったかも」
という憂いを避けるためである。「仕事」の部分は、学業でも受験でも就活でも構わない。これは、実際に子の大学生に言った話であるが、「それならば」という形で重い腰を上げさせることに成功している。罰があたるわけでもなく、ご利益があるわけでもなく、個人的な「憂い」を払拭するために初詣に行くのだ。
烈々布神社の歴史
烈々布神社の歴史であるが、当然のことながら明治以降である。函館の五稜郭があったり札幌の屯田兵があったりして、徐々に札幌の町を広げた結果が、今の烈々布神社ともいえる。
https://hokkaidojinjacho.jp/%E7%83%88%E3%80%85%E5%B8%83%E7%A5%9E%E7%A4%BE
天照の御霊がどれほど広く届くかわからないが(少なくとも日本全土には即なのかもしれない、よくわからんw)、菅原道真公も入っていてなんだかよくわからない感じになっている。ただし、氏子(たぶん、開拓民の子孫と思われる、かつ地元の企業)もそこそこいるので、神社としての体裁以上ものは備わっている。
ただし、見ての通り明治以降の建立なので、歴史的な価値はまるでない。神話的に意味もあるかどうかも微妙なところである。門前に建立されている石碑も昭和のものなので、比較的新しい。
しかし、なぜここに「初詣」することができるのか?というのを心理的に読み解いてみようというのが、今回のブログ記事の主旨である。そう、おわかりのように暇なのだ。
神社へのいたずら書きを考察する
神社の架空性を問うだけでは詰まらないので、去年あった靖国神社へのいたずら書きをあわせて考えてみよう。
靖国神社 落書き事件 14歳の中国人少年に逮捕状 落書き見つかった当日に中国帰国 | NHK | 事件 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241121/k10014645201000.html
「礼拝所不敬罪」とかにあたるらしいのだが、いわゆる公共物損壊の罪だろう。礼拝所不敬罪という意味だと、いわゆる尊属殺人を想起させるわけで、公共物としては神社仏閣であろうと通常の公共物(区役所とか公園とか)と同じ列に据えてもよいはずだ。しかし、なぜか、不敬罪という形でワンランク上の罪をかぶせようとしたがるし、一般的には不敬罪であろうという思い強い。私も直感的には不敬罪にあたるだろうと感じてしまう。
しかし、ちょっと考えなおしてみよう。不敬罪という言い方をするが、何に対して不敬なのだろうか?靖国神社自身に対してなのか、靖国神社で奉られている英霊に対してなのか、それとも靖国神社をたたえている人たちに対してなのか?ここを分解してみようという試みである。
靖国神社を烈々布神社に置き換えてみよう。烈々布神社にいたずら書きがされたときにどうなるだろう。一般的な神社仏閣に対していたずら書きをさえたときには、たしかに礼拝所という特別な場所(何に対して特別であるかは、後述する)への公共物損壊には違いないが、靖国神社ほど怒るとは思えないし、それほどニュースとして広まらないだろう。場合によっては、天照や道真公を毀損されたとも言えなくもないが、そこまで考えて怒る人は、烈々布神社の氏子ぐらいなものだろう。
靖国神社には氏子相当の人が多い(いわゆる、戦没者が安置されている、とされるので。戦没者でも安置されない場合もあるけど)と勘がられるので、氏子という意味では烈々布神社よりも多くてニュース性が高いかもしれない。しかし、靖国神社へのいたずら書きは単に氏子が多いという問題以外のところにある。つまり、別のものを毀損されたとほとんどの日本人が感じるからだ。もちろん、毀損されたと感じない日本人もいるわけで、今回はそれは例外としてとらえておく。まあ、ニュースになったという事実からして、それなりに「事件性」があるとということだ。
偶像崇拝と組織進化論
靖国神社が一般的な概念として偶像崇拝であることは間違いない。仏教も仏陀の教えそのものだけでなく仏像をあがめることも多いので偶像崇拝である。イスラム教ではないが、偶像にはちょっとした価値がでてきてしまう。偶像そのものに価値がでてきてしまう。
偶像としては芸術的な価値もあるのだが、ここでは靖国神社自身の価値を考えてみよう。狭い範囲でいえば、いたずら書きされた石碑そのものと言ってよい。
現代芸術もそうだが、芸術対象や宗教的な対象そのものには価値がない。話がずれるが、「壺」だった、壺自身に価値があるわけではない(価値があるとして売られているが)。とある宗教的な意味(芸術的でもいいし、かつての持ち主でもいいし、芸術家自身がつけた解釈自身でもよい)。ときどき、Xに流れてくる「バナナをキャンバスに貼り付けた」だけでも構わない。金銭的な価値というものはそういうものだし、それぐらいの価値しかない。
じゃあ、石碑自身には価値がないが、これにいたずら書きをされたときに、何が毀損されるかというと、石碑をあがめている人達になる。いわゆる、氏子が最初にあがるわけだが、靖国神社の場合は氏子だけに限らない。いわゆる、右翼的な積極的な靖国崇拝者もいれば、なんちゃってネット右翼のコスプレ団体かもしれないし、戦時を抜けてきた老人かもしれないし、漠然と日本の神社のくくりとして靖国神社を毀損されたという漠然とした厭らしさかもしれない。
ここでは、より消極的な「漠然とした厭らしさ」に焦点をあてていこう。
普段は積極的に靖国神社に行こうとは思わないが、靖国神社の石碑にいたずら書きをされるとちょっと嫌な感じがする、という程度のことである。でも、この「ちょっと嫌な感じがする」はどこからくるのだろうか?
同じように、たいていの日本人が知らない烈烈布神社の何かの石碑に同じようにいたずら書きをされたと仮定しよう。そうすると、感じるだろうか?別になんとも感じない場合もあるけど、ちょっと嫌な感じがする人が多いと思う(ここはアンケートなどでフィールド調査しないといけないところだが、思考実験で済ますw)
つまり、日常の中で特に意識はしていないが、神社というものが毀損されるとちょっと嫌な感じがするわけである。とくに「神社」を崇拝しているわけではない(崇拝する場合もあるけど)が、漠然とした偶像崇拝を神社という形で存在させることができるぐらいには許容しているわけである。同じものに、神社の鳥居がある。これはよく言われるように、小便をさせない場所に鳥居の記号を書いて避けさせるぐらいいは、呪術的な効果がある。そう、この呪術的な部分と「ちょっと嫌な感じがする」というのは同根であるのだ。
神社あるいは仏閣をそこかしこに配置させるだけの心の余裕を日本人は持ち続け現在にいたる。もちろん、明治の初期の廃仏毀釈があるので一筋縄ではいかないが、単純化して現在では神社仏閣を毀損しない程度の集団に日本はなっている、ということが靖国神社のいたずら書きの事件から読み取ることができる。
そこで、日本人の魂とか言ってしまうと速攻陰謀論になってしまうので、組織進化学の話につなげていこう。組織進化という視点では、いっていの集団には一定のゆるいルールが存在し、そのルールを尊重する人たちが集まって組織を担っているのである。「ゆるいルール」というのが重要で、これが厳しい罰則付きのルールであると村八分や外乱の取り込みができなくなって組織を継続して存続させることができなくなってしまう。「ゆるいルール」というのは、組織外にあるルールさえも少し取り込むことができるという緩さ必要になる。
つまりは、日本という組織(国ではなく、自分は日本人であるという意図的な従属の関係?あるいは承認意識?)をまとめているものひとつとして、「神社に対してなにかいたずらをしてはいけない」という共通認識があり、それが緩いルールになっていて、不敬罪というのを認める形になってるということである。「不敬罪」というのが、昔の尊属殺人罪ほど強い印象を与えないのはそのためだろう。尊属殺人は儒教の教えもあるだろうが、西洋でのエディプス・コンプレックス論にもでてくるので、東洋に限った話ではない。
おまけ、男女という枠組みを外す
ここでは「女性への痴漢」という言葉を出したが、言い直せば「人への痴漢」である。女性への痴漢があれば、男性への痴漢もある、さらにその中間もあるのだから、性別や年齢に限らず「人への痴漢」行為はあかんだろう、というのが共通認識になればよいのだ。
だから、Xでよく出てくる「男が~」「女が~」という言葉に敏感に反応してしまいがちなのは、そこが男性あるいは女性というカテゴリー/セグメントに無意識に分けてしまっているのが問題なのであって、これをヒトというひとつのカテゴリにしてしまうと問題が少なくなる。このあたりは類型論と特性論(精神分析と臨床心理学)に属するので、日を改めて書くことにしよう。